さくらまちだより特別編・バイオリニスト佐藤卓史さんより『大館公演に向けて』 
(2006/07/17掲載)

皆様こんにちは、佐藤卓史です。私は今、北ドイツの都市ハノーファーに滞在中です。6月はドイツの音楽大学の入試シーズンで、多くの音楽留学生が受験に訪れます。私は6月半ばにハノーファー音楽演劇大学を受験し、幸い合格の通知を得て、今は少しほっとしているところです。

ハノーファー音楽演劇大学は市の中心部から、中央駅を挟んで反対側にあり、周囲には森のように鬱蒼と木が茂っています。この森はエミッヒプラッツと呼ばれる公園になっており、私が通っていた東京藝術大学が上野公園の中にあるのと少し似ています。

ハノーファー音楽演劇大学は、近年そのレヴェルが非常に上がっており、特にピアノ科は世界で最も入学が難しい学校の1つと言われています。私にとってまず第一の関門は「語学力」でした。

学費の安いドイツの音楽大学には、アジアなどから多くの学生が留学しています。しかし大学はほぼすべて国立で、国民の税金によって運営されているため、外国人留学生ばかり受け入れるのはけしからんという意見を受けて、語学力が入学の必要条件となり、年々要求されるレヴェルが高くなっています。

ドイツ文化局が世界中で運営している語学学校「ゲーテ・インスティトゥート」(通称ゲーテ)の試験が、留学生の語学力を計る統一基準となっています。この試験には、簡単な方から順にZD(初級修了程度)、ZMP(中級修了程度)、ZOP(上級修了程度)、KDS(ドイツ語小ディプロマ)、GDS(ドイツ語大ディプロマ)とあり、ZOPを持っていると日本でドイツ語の教師が務まると言われています。

ハノーファー音楽演劇大学が要求している基準はZOPまたはKDSで、器楽科に関しては少し甘くZMPでもよいということになっていますが、私は今年1月の時点で最も簡単なZDすら持っていない状態でした。慌てて青山にあるゲーテ東京支部に通い詰めてZDの試験を受けましたが、これが実に大変でした。私はその前にも独学で3年、大学で3年、ゲーテで半年間ドイツ語を勉強しましたが、それでも難しかったことを思うと、ZOPなどというのを取れる人は余程語学力に恵まれているのか、あるいは私の語学の才能が極端に乏しいのか…。

ともかくZDの合格証と、ゲーテの先生に書いていただいた「すぐにZMPも取れるようになるだろう」というお墨付きを願書と併せて提出したところ、特にお咎めはありませんでしたが、以前に出願した人の話では、「語学力が基準に達しないため受験できません」と願書を受理してもらえなかったこともあったそうです。

これに比べると、実技の試験は非常に単純です。私の場合は日本の音大を既に卒業しているので、楽典などの筆記試験は免除され、ピアノ演奏のみが課せられます。演奏曲目は時代ごとに指定された任意の楽曲で、その場で試験官の指示に基づいて15分ほど演奏します。会場はホールというより大講義室のような教室で、7人ほどの試験官が座っています。日本の音大入試と大きく異なるのは、試験官がとてもフレンドリーなことです。確かにアットホームな雰囲気の中で弾くことで、より緊張せずに本来の実力が発揮できるように思います。

私は10月から、この大学の「芸術家養成コース」に在籍し、アリエ・ヴァルディ教授の下で勉強を続けることになりました。ヴァルディ教授はイスラエル生まれのピアニスト・教育家で、2000年のショパンコンクールの覇者リ・ユンディをはじめ多くの優秀なピアニストを育てた名教師として知られています。これからの数年間、コンサートアーティストとしての特別な演奏技術やステージパフォーマンスを身につけるとともに、長い間クラシック音楽の中心地であったドイツで、その風土や人々の生活を直に感じながら、音楽への解釈をより深めていければと考えています。

ゲルマン民族の国ドイツは、ラテンの国々と比べると味覚の多彩さに乏しいと言われています。「じゃがいも、ソーセージ、ビール」というイメージはあながちステレオタイプではなく、実際一昨年の春ドイツを旅行した際には「3食ともソーセージ」という毎日にいささかうんざりした経験があります。

そんなドイツの食卓を、春にのみ彩る食材がシュパーゲルと呼ばれるホワイトアスパラガスです。日本で常食されるアスパラガスが緑色なのは、日光に当たることで葉緑体が発生するためで、ホワイトアスパラガスは日光を避け、茎全体を土盛りの中に隠して育てて、根元から専用の器具で掘るようにして収穫します。この収穫は6月下旬までと決まっていて、春先からその時期までのみ、生のホワイトアスパラガスが店頭に並びます。

生のアスパラガスは皮をむき、塩・砂糖・バターを加えたお湯で20分ほど茹でて、ソースなどをかけて食します。口の中に広がる甘みとほのかなほろ苦さが絶妙で、大味なドイツの食の中では一際異彩を放つ食材と言えるでしょう。

現在サッカー・ワールドカップ真っ最中のドイツは、異常な盛り上がりを見せています。街の至る所にドイツの国旗が揚がり、ドイツが勝ち進むにつれてその数がどんどん増えていきます。道行く自動車の窓や天井からも三色旗が立てられ、試合当日ともなるとクラクションを鳴らして大騒ぎです。試合中は皆がテレビに釘付け、レストランに入ってもウェイターもスタッフも誰も出てきません。結局前半が終わるまで延々と待たされるはめになりました。

聞くところによると、ドイツはナチスの暗い過去の反省から、これまでは国を愛するなどということは恥ずかしい、というような風潮だったそうで、国中がこれほど愛国的な状態になったのは戦後初めてのことなのだそうです。

それにしても、我々に音大の受験通知が来た頃には既にホテルは満室、航空運賃ははね上がっていて、サッカーに関係ない音大受験生にとっては実にはた迷惑な話でした。

帰国後の7月17日、大館市民文化会館でリサイタルを開催します。ここでは前半にシューベルトの4つの即興曲、バルトークのソナタという大曲を2つ、後半は小品をいくつか並べて演奏します。「前半は大曲、後半は小品」というプログラミングは、前世紀の巨匠、アルトゥール・ルービンシュタインやウラディミール・ホロヴィッツが好んで組んでいたスタイルです。満場の聴衆の心をつかんで離さなかった先人の知恵を借りて、私も客席の皆様とコミュニケーションを取りながら、一体となって音楽を作り上げていくような、そんな演奏会になればと願っています。

また10月1日には秋田市のアトリオン音楽ホールで、東京芸大附属高校のオーケストラとモーツァルトのピアノ協奏曲を共演します。私が15歳で秋田を離れ、初めて専門的な音楽の勉強をした母校の後輩たちと、故郷秋田で一緒に演奏できることは本当に嬉しく、楽しみなことです。

皆様と演奏会場でお目にかかれることを、心よりお待ちしています。